考えたことをつらつらと。日々の記憶。

疲れるけれど、傷つくよりはずっとまし。

f:id:tomoyohirokawa:20210322215103j:plain

 

傷つくことが減った代わりに、疲れることが増えた。

 

ちょっと棘のある言葉をかけられた時。

目線が冷たかった時。

誰かに煩雑な言葉を投げつけてしまった時。

以前は一瞬一瞬を真正面から受け止めて、その度に心をすり減らしていた。

 

あの人は私が嫌いなんだろうか。

私は何かをしてしまったんだろうか。

どうしてあんなことを言ってしまったのだろうか。

 

答えのない反省や後悔は溶けたチョコレートみたいにべっとりとしていて、

小さなコップをすぐに満杯にしてしまった。

何回も何回も、掻き出しては満たされ、書き出しては満たされの繰り返し。

冷えて固まってしまったら、もう笑えなくなることだけは

教えられてもいないのに知っていたから

手を止めないことが何よりも重要だった。

海の真ん中でぷかぷかと浮き続けるよりも、

豆粒みたいな島を目指して泳いだ方が案外息は続くもので。

酸素さえあれば、手足の疲れなど取るに足らなかった。

 

しかしそれは過去の話。

何がきっかけだったのかは忘れた。

いや、本当は心当たりがあるのだけど、他人に伝えるには退屈すぎる。

コップが割れた瞬間、なんて劇的なものではない。

蓋をしたのだ。

もう何も注がれないように、

もう掻き出さなくていいように。

どんな豪雨でも、濡れなくて済むように。

 

最初の蓋は紙製で、すぐに湿ってしまった。

次の蓋は木製で、しばらくすると腐ってしまった。

その次の蓋は金属製で、熱を溜め込みすぎて蒸し風呂になってしまった。

そして今の蓋は右手。

時々雨漏りするけれど、嫌ではない。

コップの底に空けた小さな穴から、ぽたぽたと消えていくのを眺ている。

 

ただ、年に1回くらい雨漏りがひどいことがあって、そういう時は歩くのも大変。

小さい穴が1個では足りないから、もう2-3個針を底に刺したいのだけれど

ぬかるみに足を取られて進めない。

左足を前に出そうと右足を踏ん張ったら、右足が沈んで身体ごと飲み込まれていく。

ようやく抜け出せた頃にはもう汗まみれで、

持っていたはずの針は行方不明。

疲れた体を丸め込んで、晴れるのを待つしかないのだ。

耐えていれば時が勝手に進んでくれる。

そういうなんでもないことが、何よりも大切だったりするのだ。

疲れるけれど、傷つくよりはずっとまし。

 

読本書留:太宰治『如是我聞』

f:id:tomoyohirokawa:20210316211942j:plain

 

”他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。”

 

太宰治『如是我聞』はこの一節から始まる。「如是我聞」は本来、仏教で経文の冒頭に置かれる言葉だ。「このように私は聞いた」を意味する。なんと穏やかそうな言葉。しかし太宰の如是我聞は飢餓の猪のように終始荒れ狂っている。文壇からの批評に腹を立て、これでもかと怒りをぶちまけている。文庫本の一番後ろにお淑やかに身を潜めているわりに、信じられないほどの熱量を放っているのだ。『人間失格』や『斜陽』、『トカトントン』に漂うような無念、諦め、焦燥は見当たらない。理性をどこかに落っことしてきた、前のめりな文章の痛快さたるや爽快。口述をそのまま編集者が書き取ったという説もあれば、事前に原稿を作り込んでいたという説もあるが、いざ掲載すると決めた編集者の心情はどんなものだったのだろう。まるで心の暗い部分を代わりに世間様に暴いてくれているような快感。それでいて、当の自分は無傷なんだから二度美味しい。太宰が代わりに傷ついてくれるから、読者は勝手に救われる。どこぞの神様みたいだ。

初めて家出をした。

f:id:tomoyohirokawa:20210312213629j:plain

 

初めて家出をした。

ひとりぼっちになりたい大人の悪態、抵抗である。

 

 

愛用のリュックとコートにスニーカー。

靴紐を閉め、鍵を握り、体の向きを変え、左手を動かす。

まるでいたずらをしているような高揚感が視界の解像度をあげていくのがわかった。

綺麗に整列した動作が何かを雄弁に語り出す前に、ここを離れなければならない。

風の重さを感じながら一気にドアを押し切ると、向かいのビルで老人が煙草を蒸しているのが見えた。

失いかけていた自由を寸で掴み直したような、そんな気持ちになった。

 

どこまでも逃げてやろうと山手線に飛び乗ったが、次の駅も次の駅も降りられなかった。

東京という土地は気に入っているが、思い出が無邪気に散らばっているからかなわない。

簡単には忘れたふりをさせてくれないのだ。

どこに行くにも電車を使ってきたから仕方がない。

東京で暮らすということは、そういうことである。

別のことに気をまわそうとつり革に下がったドラマのあらすじを読んでいたら、いつの間にか大きな輪っかの反対側まで来ていた。

 

江戸時代、甲州街道のいち宿場として栄えた街、新宿。

ふらふらとビルの隙間を練り歩いた後、東新宿のお宿を寝床に定めた。

入り口こそ平家のような見た目だが渡された部屋番号には1201と書かれており、まさかとは思ったが指示通りに進むとエレベーターがあった。

いったいどういう構造になっているのか。

愉快なので、謎のまま持ち帰ることにした。

 

部屋の小窓から新宿駅が見えた。

期待よりずっと空が広い。

21時をすぎると、遠くに見えるビル群に赤が散らばり、群れを成した王蟲のように見えた。

ビルひとつひとつの造形の違いがはっきりとわかり、こんなに明るい夜があるのかと驚く。

少し手前のマンションの一室で何かが動くのが見え、よく目を凝らすとテレビの画面のようだった。

自分の見ている景色は無機質な建造物ではない。

生活の集合体だった。

 

右の空に、左方向へ移動する小さな光を見つけた。

その先には星がひとつ。

恥ずかしいことに、その時私は久方ぶりに星の存在を思い出した。

あのまま激突して爆発してしまうかも、と考えるだけで口元が緩む。

知識と引き換えに明け渡してきた感情を、また一つ神様から取り戻してやったのだ。

忘れてしまったことを思い出す喜びは、何にも変え難い。

こうして日々は静かに延命されていく。

 

景色の中に隠れた何万もの生活にも、できるならば喜びが溢れていて欲しいと、ぼんやりと思った。

観葉植物の命が尽きるまでに、私は家に戻るのだろう。

大体のことはフィクション

f:id:tomoyohirokawa:20210309220655j:plain

昨日から「One Last Kiss」を何度も聞いている。

件の映画はまだ見ていない。

 

考えなくていいことばり考えてしまう。

問いもはっきりしていないから、

数秒前に何を考えていたのかも分からない。

時間は連続しているはずなのに、

実はそんなの教科書の中だけの話で、

現実はぶつ切りなのではないかと疑ってしまう。

 

思考の真ん中に自分がいるのか、

他の誰かがいるのかも掴めない。

小さい頃、キャンプ先の森で霧に飲まれた時の恐怖が蘇ってくる。

オーストラリアの海で息継ぎに失敗して

ティファニーブルーの海に体が沈んでいった感覚を思い出してしまう。

あの時友人が腕を力強く引っ張ってくれなかったら、

最期の景色は屈折した青空だった。

 

抑揚のある豊かな日々をご機嫌に生きられているのに、

内心は恥ずかしいくらいに怯えている。

記憶の底にトラウマでも沈んでいるのだろうか。

透明だから見えないだけ?

実は氷で、勝手に溶けてくれたらいいのに。

癇癪を起こした鬼の子供が暴れそうになるたびに、

大丈夫大丈夫とお腹を撫でるのも飽きてきた。

和解する頃合いなのだろう。

 

大体のことはフィクション。

事実は書かない。言葉遊び。

ぶつからないように適切な距離をとる。

ワニワニパニック

f:id:tomoyohirokawa:20210306183723j:plain

「出る杭は打たれる」という言葉を聞くと、小さい頃おばあちゃんと一緒に遊んだワニワニパニックを思い出す。100円玉を入れると何個かある洞窟からランダムにワニが出てきて、それを棒の先にボクシンググローブをくっつけたようなものでポコポコ叩いていくゲームだ。

 

おばあちゃんはよく週末になると市内のデパートに私を連れて行ってくれた。リビングで自由帳に絵を書いているとブレーキ音が聞こえてきて、おばあちゃんの車が駐車場に入ってきたことがすぐにわかった。カーテンをめくって外を見ると、玄関へと歩くおばあちゃんのコートの端が一瞬見えた。

 

週末のデパートは格好の遊び場。どの階の店員さんも赤ん坊の頃から私を知っていて、「本当に元気ね」と褒めてくれた。あの優しい人たちが当時何歳だったのかも、今何歳なのか、お元気なのかもわからない。そういう意味では昔も今も紛れもない「他人」なのだけれども、そんな風に括ってしまったら"何か"が閉じてしまう気がするのだ。

 

ワニワニパニックは屋上のゲームセンターの一番階段に近い場所にあった。買い物途中にデパートの食堂でおやつのホットケーキを食べるか、ゲームセンターへ行くかはいつもおばあちゃん次第。家にはゲームがなかったため、屋上に向かう階段はいつも全力で駆け上がっていた。「はーやーく!」と叫ぶと、おばあちゃんは「腰が痛いのよ」と笑った。そういえば、昔から腰がそんなに良くない。

 

ワニを叩くものはマシン横のホルダーに2つ入っていて、お金を入れる前に1人1つずつしっかり握るのがいつものスタイルだった。ガチャンと金属がなる音がするのと入れ替わりで、賑やかな音楽がなり始める。ガガッガガッという小さな摩擦音と共に、緑のワニが私の目の前に一匹出てきて、すぐさま叩く。今度はおばあちゃんの前に一匹出てきて、すごい勢いで叩かれた。びっくりして横を見ると「もうちょっと強く叩かないとダメだよ」と真剣な表情でつぶやく人がいた。あの場所で叩いたワニの数は残念ながら思い出せない。

 

大人になってゲームセンターに行く機会はほぼなくなった。見かけるたびにワニワニパニックを探すのだが、なかなかない。もう廃盤になってしまったのか?と少し残念に思っていたのだが、一昨年あたりに数年ぶりにあの屋上に行ったら、なんと残っていたのだ。ただ、遊ぶことはできなかった。ゲームセンター自体が営業しておらず、あらゆる機械が縄とビニールでぐるぐるに巻かれ、廃棄シールが貼ってあった。老朽化。少子化。理由なんていくらでも想像がつくし理解はできるが、確かにあった日常がこうやって過去になっていくのかと実感してしまった。大人になるってこういうことなの?もうこの場所に入れるのはきっと最後なのだと分かって、1枚だけ写真を撮った後、電気がひとつ消えたままの階段をひとりで下った。

 

時間が過ぎること、人生が進むことに私は好意的な人間だと自負している。過去も大事だが、浸るよりは自分なりに箱に詰めて大切に保存しておきたい。時々空けて懐かしい気持ちになれれば十分だ。浸ってしまうと、どうしても思い出を検証してしまう。今の価値観で捉えるものではないのだ。だってもう、私はワニを叩けない。強い力で力一杯なんて無理だ。余計なことばかり重ねてしまう。

また一つ秘密が増えてしまった

f:id:tomoyohirokawa:20210304212035j:plain

年初めの肌寒い朝。 

大江戸線春日駅からゆっくりと地上に上がり、ドームシティの方面へ少し歩くと、スーッと空に伸びる曲線が目に入ってきた。

記憶の中にあるようなはしゃぎ声は聞こえない。

人なんて元からいなかったかのような静けさが漂っていて、

まるで大きな静物画を見ているようだった。

 

もしあのてっぺんに立ったら、どこまで見渡せるのだろう。

子供の頃は、大人になったらどこへでも行けると思っていたけど、

案外いけない場所も多くてびっくりする。

 

でもそんなの夢がないから。

近所の坊やには内緒にしておこうと思う。

 

また一つ秘密が増えてしまった。