雪山で例えるなら
どんな悩みも迷いも、ある人のたった一言で全部吹き飛ぶことがある。
大学2年生頃までは「ふんわりと包むような共感」を含む言葉に救われていた。
一番に思い出すのは大学1年生の頃。
ある女性から頂いた手紙に「どうかネガティブな自分を愛してあげて」と書いてあり、よくわからないけど涙が止まらなかった。
どう煮込んだらこんな手紙を書ける心ができるのか、いつかレシピを聞きたい。
大学3年生あたりからは「矢のように突き刺さる率直さ」に救われることが多くなった。
しかも1人や2人、1度や2度の話じゃない。
辛辣とも言えるが悪意は決してない言葉に、私は何度も「悲劇のヒロイン」の舞台から引きづりおろされてきたわけで。
高ぶった感情は波のように沖へ引いていき、思考に直接冷えピタを貼られたような感覚を何度も味わった。
どんなに困った状況も冷静に考えて、見栄と恥さえ捨てれば案外打開策は見つかったりする。
こうやって大学2年生前と後を比べてみると…、なんだろう。
雪山で例えるなら、以前はあたたかい毛布にくるまれ「寝ないでね」と優しく言われていたのに、
いつの間にか鈍器で頭を殴られ「寝るな!!!!!」と怒鳴られるようになった感じだ。
すっごい差。
後者はもちろん毎回無傷なわけもなくて、
いったん大きなたんこぶができて、なんなら流血したりする。
で、なんなら痛くて泣いちゃったりして、「ばかやろー!!!!」とか叫ぶ。
そうして声があたりに響き渡って、
10回目のリピートで小さくなった音が「ばかやろーはお前だ!」に聞こえて。
急に冷静になった頭で「仮にばかやろーがあいつじゃなく、私だとしたら」なんて検証を脳内で始めてしまうのだ。
チェス盤をひっくり返すと、思わぬ現実が見えてくる。
2人分の人生を生きてるみたい!ちょっと得した気分!
と思い始めたら、痛かったことも泣いてたことも全部忘却の彼方。
記憶力の鈍さはこういうところで役に立つ。
ただ一方、目の前で泣きわめかれた方は困りますよね。。。
何度も困らせてしまう自分はお子様だなと思うんですが、
もう今はいつも許してくれてありがとうとしか言えません。はい。
大人になります。
しんどくなったら、逃げてください。
とはいいつつね、今だって毛布も嬉しいよ!
ってことは最後に書き留めておきます。
霧みたいな希望
楽しいこと、うまくいくこと。
しんどいこと、うまくいかないこと。
毎日たくさんあって、うまく折り合いをつけているのに。
たった一つの「うまくいかないこと」が全てを飲み込んでしまうことがある。
気にしないようにしても、気にしてしまう。
お得意の「次はこうしよう」に思考が向き切ってくれない。
そうして、低迷した心は新しい「うまくいかないこと」を引きつけてしまう。
目の前にあったはずの出口も黒いカーテンで覆われ、どこにあるのかわからなくなってしまう。
自力で出口を探す力は残っているのか、それすらもよく分からない。
もうそんな力などないと、認めることさえできなくて。
出口の外から誰かが入ってきて「出口はこっちだよ」と教えてくれたらいいのに、と。
霧みたいな希望を夢見てしまう。
だから、出口を見失っている人に
「心配してるよ、待ってるよ」なんて声をかけることで満足しないでほしい。
自力で出口を探せよ、って言ってるのと同じだから。
「本人の成長のために」なんて、その肝心な本人の残HPをわかっていないなら、あなたの期待はプレッシャーにしかならない。
出口を探せない自分を攻める材料を安易に与えないで。
そんなことするぐらいなら、踏み込んで、自分がこじあけた出口に引っ張って、出口の前で「じゃあ外で待ってるね」と手を離してほしい。
あと1歩で外に出れるところまで、連れていってくれたって、いいじゃない。
これは私の話であって、私の話じゃない。
出口を見失ったこともあるし、出口の手前まで引っ張ってもらったことも、「心配してるよ、待ってるよ」と他人に言葉をかけたことも何度もある。
「迷惑」とか「甘え」に引け目を感じるから、その人は「助けて」って言えないのかもしれないってことに、私たちはあまりに盲目過ぎる。
そんなことを、最近考える出来事がいくつかあった。
苦しいね。
嫉妬
先日、大学時代の所属ゼミの最終発表会を見に行った。
後輩たちが1年、もしくは2年かけてやってきた研究や作品の報告と、自らの変化を語る姿はとても立派で。
つい半年前まで私もそこにいたはずなのに、空気も間も言葉も交わされる質問もすべてが新鮮に感じた。
今現在生きている日常にはないものが、確かにそこにはあった。
なんと形容すればいいだろうか。
「心地よい」でも「刺激的」でもなく、ただゆらゆらと漂う水面のような、静かだけど深い海の底から小さな音が湧き上がってくるような、
とても大切で、耳を傾けること、考えることにすべての神経を持っていかれるような、そんな感覚だった。
自分に向いてばかりの心は、確かに相手に向いていて。
こう思われたい、とか。
年上だからいいこと言わなきゃ、とか。
嫌われたくない、とか。
いつも蝕まれてばかりの卑しい感情は嘘のように姿を見せなかった。
そんなこと考える必要がないと、場がそっと教えてくれたのかもしれない。
そして何より印象的だったのは、後輩たちの言葉がとても綺麗だったことだ。
言葉遣いではない。言葉がとても澄んでいた。
ある後輩が発表者に「こんなお水みたいに澄んだ発表ができる人がいるんだ、と思った」と言っていて、少し嫉妬した。
あたたかさと正直さがにじみ出るような発表をできる後輩にも、独自の言葉を選んでまっすぐに伝えられる後輩にも。
たった数分、ひとことに「その人自身」がこもっていることに、嫉妬した。
この2人含め、ゼミの後輩には思考のろ過が丁寧な子が何人もいる。
はぁ。ブログ再開の最初の記事が、嫉妬の話になってしまった。
また明日から少しずつ、考えや日々のことを書き留めていきたい。