初めて家出をした。
初めて家出をした。
ひとりぼっちになりたい大人の悪態、抵抗である。
愛用のリュックとコートにスニーカー。
靴紐を閉め、鍵を握り、体の向きを変え、左手を動かす。
まるでいたずらをしているような高揚感が視界の解像度をあげていくのがわかった。
綺麗に整列した動作が何かを雄弁に語り出す前に、ここを離れなければならない。
風の重さを感じながら一気にドアを押し切ると、向かいのビルで老人が煙草を蒸しているのが見えた。
失いかけていた自由を寸で掴み直したような、そんな気持ちになった。
どこまでも逃げてやろうと山手線に飛び乗ったが、次の駅も次の駅も降りられなかった。
東京という土地は気に入っているが、思い出が無邪気に散らばっているからかなわない。
簡単には忘れたふりをさせてくれないのだ。
どこに行くにも電車を使ってきたから仕方がない。
東京で暮らすということは、そういうことである。
別のことに気をまわそうとつり革に下がったドラマのあらすじを読んでいたら、いつの間にか大きな輪っかの反対側まで来ていた。
江戸時代、甲州街道のいち宿場として栄えた街、新宿。
ふらふらとビルの隙間を練り歩いた後、東新宿のお宿を寝床に定めた。
入り口こそ平家のような見た目だが渡された部屋番号には1201と書かれており、まさかとは思ったが指示通りに進むとエレベーターがあった。
いったいどういう構造になっているのか。
愉快なので、謎のまま持ち帰ることにした。
部屋の小窓から新宿駅が見えた。
期待よりずっと空が広い。
21時をすぎると、遠くに見えるビル群に赤が散らばり、群れを成した王蟲のように見えた。
ビルひとつひとつの造形の違いがはっきりとわかり、こんなに明るい夜があるのかと驚く。
少し手前のマンションの一室で何かが動くのが見え、よく目を凝らすとテレビの画面のようだった。
自分の見ている景色は無機質な建造物ではない。
生活の集合体だった。
右の空に、左方向へ移動する小さな光を見つけた。
その先には星がひとつ。
恥ずかしいことに、その時私は久方ぶりに星の存在を思い出した。
あのまま激突して爆発してしまうかも、と考えるだけで口元が緩む。
知識と引き換えに明け渡してきた感情を、また一つ神様から取り戻してやったのだ。
忘れてしまったことを思い出す喜びは、何にも変え難い。
こうして日々は静かに延命されていく。
景色の中に隠れた何万もの生活にも、できるならば喜びが溢れていて欲しいと、ぼんやりと思った。
観葉植物の命が尽きるまでに、私は家に戻るのだろう。