考えたことをつらつらと。日々の記憶。

リハビリ

昨晩、布団の中で河村・拓哉さんの推し・文芸の文章を読んだ。書き手の優しさや配慮がじんわりと滲む、品のある柔らかい言葉が綴られていて、お湯に浸かっているみたいだった。好きだなぁと素直に思った。

毎日難しいことばかり考えていると、不意に心のうちに現れた素朴な感情に戸惑ってしまう。眠いなぁと思いながら、私は初めて友人以外の書評を見て本を買った。

 
4日前から、書くことのリハビリを始めた。人様の目に触れる場所に文を散らすのは憚られてGoogle docsに書き溜めていたのだけれど、本日をもって脱出。数年ぶりにhatenablogに戻ってきた。他にもよく使っている記事投稿サイトはあるけれど、こちらの方が素朴で落ち着くのだ。まだ残っていてくれて嬉しい。

 

さて、一つ前に投稿した記事を振り返ってみよう。今にも人を刺し殺しそうな鋭利な言葉が並んでいて少しびっくりしてしまう。これって本当に私が書いた?

自分の荒々しい部分や焦燥の自覚を拒む頑なさが見え隠れてしていて(もしくは剥き出しで)とてもいい。こういう文章は、荒ぶっている時にしか書けないからね。少なくとも今日の私には書けないものだから、書いてよかったなぁと思う。

読んでない人は読まなくていいよ。恥ずかしいから。

 

書かなくなった私へ

言葉にできない焦燥感。

自分は何者でもないことを毎日再確認している。

情報を享受する側として生きる自覚を持ってしまったら黄色信号。

生み出す側であるという自負に、事実が追いついていない現実に目をつむりたくなる。

しかし視界を暗闇で満たしたら行き先は愚と羞恥の未来だ。

崖の縁で目下の谷底を四つん這いで眺めているような危うさ。

青少年の心の揺らぎは風吹くままだが、誤った自己認識は容赦無く地面にヒビを入れる。

差し伸べられる手を期待するには谷が深すぎる。

いっそ心をうんと軽くして、羽のように優雅に落ちていくのも風情があるかもしれない。

好奇心と気まぐれに誘われながら空を舞い続けるのだ。

そういう生き方も少ない選択肢の中に入っている。

迷いと呼んでしまえばそれまでだ。

結局のところ、自我との付き合い方に全ては帰結するなんて。

つまらない結論を明日の自分は気に入るだろうか。

 

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久しぶりに書きたくなって、思うがままに書き始めたら、とても荒々しい文章が出来上がった。少し恥ずかしいけれど、これを書かなくなった私への餞別にしたい。

あんまり自覚はないけれど、多分ちょっぴり疲れている。抑圧されていそうな夢ばかり見るから多分そう。毎晩大変で、ほんと笑っちゃう。もう面倒なので結論まで飛んでしまうと、つまり書くことはセラピーなわけです。

チームは楽しい

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久しぶりに、ブログを書こうと思う。

 

この数週間、お腹のあたりでモヤモヤとしたものが渦巻いている。風邪のせいなのか、歯の治療のせいなのか、全然わからないけど、少しずつでもことばにしないと永遠になくならないない気がして。思い切って、流れのままに吐き出してみたい。

 

大学時代の私にとって、ブログを書くことは度胸をつける手っ取り早い方法だった。他人の目を気にして言葉を飲み込んでばかりの自分を変えたくて、自分の思考を無理やり他人の目にさらした。いつか来るであろう批判にドキドキする日々だったが、実際はあたたかい反応ばかりで。度胸がつく前に、親以外にも見守ってくれる人たちがいることを知った。

 

ブログを書かなくなったのは、デザイナー修行を始めた頃。何度も転ぶ中で、面と向かって相談することを覚えた。本当に思っていることを声にすることは、ブログを書くことよりも何十倍も難しくて。電池切れ間近のおもちゃみたいに、ぽつぽつとしかしゃべれなくなる。

まぁこれは今もなのだけど...。ちょうどいい言葉を探しては口に出し、少しずつ輪郭をなぞっていくような。よく言えば丁寧、悪く言えばもどかしい音を紡いでしまう。でもやっぱりちゃんと伝えたいから、最近は新技「イラストを描く」「比喩を使う」を駆使している。

デザインの説明なら、すらすら話せるのにね。自分でも謎である。

 

そういえば、新卒でうちの会社に入って半年近く経った。いろいろ迷うこともあったけど、この会社を選んで良かったと今は思っている。最終面接で、社長に「新卒でうちの会社に入るのは本当にオススメ」と断言されて、「ほ、ほう」と思わず答えてしまったのが昨日のことのようだ。

 

結局、その1週間後「ユーザー目線のものづくりを学びたい」という理由で内定を承諾した。まさか私の人生に「内定」なんて言葉が現れるとは...。ちなみにその更に数ヶ月後、内定者5人が顔を合わせることになるわけだが。その日の日記に私は「みんなリスクの塊みたいだった、私たち採用した社長すご」と書き残している。

今となっては笑い話だし、仕事も楽しい。悔しいことも多いけど、それ以上に人から学ばせてもらっている。チームで働くことにもようやく馴染んできた。フリーランスで仕事をしていた時は一人の方が楽だと思ってたけど、チームは楽しい。

 

さて、本当にとりとめのない文章になってしまったので、そろそろ終わりにしたい。まだ自分で自分の変化に追いつけていない感覚が強いのだけど、時間がかかってもちゃんとことばを探していこうと思う。

良い秋が過ごせるといいなぁ。

 

保存保存

深淵

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あらら。4ヶ月も放置していた。

最近、頭のネジがゆるみ気味なのは、思考を言語化することをサボっていたからか。

自分の発する言葉がいい意味でも悪い意味でも変わってきた。

 

 

そうそう、最近「声」についてよく考える。

ハチミツとクローバー』だったかな。

記憶として最後まで残るのはその人の姿なのか声なのか、みたいなセリフがあって、

最近後輩から声を褒められた時にふと思い出した。

 

姿か声か。

多分人によって違うけど。

私の場合は声だと思う。もっというと、笑い方と話し方の癖。

あの人は語尾が伸びていたなぁとか。

「くっくっ」って笑う人だったなぁとか。

思い出してはちょっとマネをしてみたりする。

で、気づいたら癖が自分に移っちゃったりして、次の年には私の特徴になってる。

 

そういう積み重ねって、嫌いじゃない。

あー。こういう話を誰かとする機会があったらいいのに。

学生時代はゼミがそういう場所だったけど、社会人になった今は全然ない。

対話、とまとめてしまうのはちょっと悔しいけど

落ち着いて違いの深淵を掘るような時間が欲しいなぁ。

うん、欲しい。

 

とりとめもない4月の話

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4月になって、私はある会社の新入社員になった。

 

出社日初日、つまり先週の月曜日。

10時の入社式に間にあうよう、8時過ぎには部屋のカーテンを開けた。

まだ肌寒さを感じつつも、少しだけ春の陽気を感じるような朝だった。

 

9時過ぎ、身支度を整えて家を出る。

自分でも呆れるほどにいつもの朝となんら変わりなかった。

ドキドキもワクワクもせず、いつもより人の多い電車に乗り込むと

どこかの電車が止まっているのだろうか?

時間帯にしては密度が高かった。

 

今年の新入社員は私を含め5人。

自己紹介も特に緊張することもなく、

「あ〜これが新入社員なのか〜」とどこかで引いて見ている自分がいた。

単純に、実感がわかなかったのだと思う。

9月卒業だった私は、卒業式から入社式まで6ヶ月もあった。

そのため境目がひどく曖昧なのだ。

学生でも社会人でもないよくわからない6ヶ月はいろんな感覚と思考を私に与えてくれた反面、学生から社会人になる期待や緊張感をどこかに隠してしまったらしい。

 

いったいこれからどうなっていくんだろうか。

私は私なりに目的をもって今の会社に入った。

だからその目的を達成するためにゆるりと進もうと思う。

毎日8時間は寝たいなぁ。

うん、寝よう。

 

現在は、絶賛新卒研修中。

チームのメンバーが心広すぎて泣けてくる。

私はお子様だ。とても。

  

悔しくて泣きそうな日は上を向いて歩こう

そうしてビスコを一口かじるんだ。

強い子になる、は永遠の宿題。 

ああ、そうだ。

定期買わなきゃ。

 

 

失恋でもしたのかしら

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女は失恋すると髪を切るという。

その気持ちはわからないようで、わからなくもない。

髪を切ると似合う服も変わって、鏡に映る自分が「新しい自分」に見える。

そうして髪を切る前の自分は「前の自分」になる。

あっという間に過去になる。いろんなことが。

たった5cm髪を切るだけで。

なんて簡単。簡単すぎる。

 

しかし私はいつも思う。

過去をこんな形で切り離せてしまえるほど、

「前の自分」の感情は軽いものだったのだろうかと。

そんなわけはない。そんなわけがない。

そう思うと、結局脱ぎ捨てられない「前の自分」が顔を出す。

いや、そもそも脱ぎ捨てたつもりもなかったのだけど。

結局私にとって「髪を切ること」はちょっとした儀式みたいなもので、

他のあらゆる儀式と一緒で信じなければ儚く効力を失うらしい。

信じれば永遠に魔法にかかっていられるのに。

いつからか疑うことを覚えてしまったがために、魔法が使えなくなってしまった。

大人って、めんどくさいなぁ。

あら私、失恋でもしたのかしら。

 

 

ちなみに魔法の代替品として大人が身につけるのは「だますこと」だと思う。

心はボロボロでも顔に笑顔を貼り付けて、相手をだまして、自分もだます。

だましてだまして、だましとおす。

それで救われるならそれでいい。

 

私は何度か挑戦してるけど、うまくいった試しがない。

顔に出てしまう、らしい。

そのうち急にうまくなったりするんだろうな。

ある日突然絵がかけるようになって、

ある日突然泳げるようになって、

ある日突然逆立ちができるようになったから。

同じように、ある日突然だませるようになるんだと思う。

まだ違う魔法は使えるのかもね。

ちょうどいい

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3月頭、オーストラリアのケアンズに行ってきた。

高校からの友達と現地集合、現地解散の旅。

朝5時頃空港に降り立ち、8時頃宿に着いたら、

あまりにも普通なテンションで寝起きの友人が現れた。

何の感動もない。

お互い、近所のスーパーでたまたま会ったような感じだった。

 

それから4.5日。まぁよく話した。

23歳女2人で政治やらマイノリティやらデザインの話やら…。

構造的な考察を何度もくりかえした。

飽きもせず、朝も昼も夜も。

まるで表面張力でギリギリを保っていた議論欲が一気に溢れ出したみたいに。

友人は半年間のオーストラリア生活で溜めこんだ話を、

私は話し相手を失って溜め込んだ話を。

私も、きっと友人も、自分の内側を外にぶつけた時の反響音に飢えていた。

考える心地よさが欲しくて欲しくて。

話が膨らめば膨らむ程、どうしてもお互いの「枯渇」を感じずにはいられなかった。

 

あぁ、もしかしたら、ただのゼミ合宿だったのかもしれない。

 

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最終日の朝、2人で宿の台所を借りてフレンチトーストを作った。

砂糖のほのかな甘みは、どこか日本的で。

甘いミルクを注いだ紅茶によく合った。

この時期、オーストラリアの窓から入り込んでくる日差しはとても鋭い。

日本よりもっとカラッとした夏が漂っている。

日本はまだまだ冬だ。

スーツケースにしまいこまれたコートが布の塊に見えた。

 

私は旅に非日常をあまり求めない。

朝はいつも通りのトーストをかじり、

昼は人と話して、勧められた場所にフラッといき、

夜は音楽を聴いてドラマを見て眠る。

そういう1日が好みだ。

非日常は勝手に流れ込んでくるから、それをゆったり受け入れるのが私にはちょうどいい。

 

ちょうどいい。ちょうどいいのだ。